| Yamamoto Shunichi | side A | side B | story | logbook | publication | award |
| Ishibashiro story
text Yamamoto Takatoshi Ishibashiro IV, Sangenjyaya 石橋楼覚書 三軒茶屋石橋楼四世 山本隆俊 石橋楼の歴史は崩壊の物語である。 それは幕末から明治への狭間にあって市井に生きようとした一人の 地方武士に端を発し、ついで明治から大正の末にかけて街道大山筋 に消えていった江戸町場文化の名残へと続き、やがては大正・昭和 の軍国化の波間に沈まざるを得なかった。 第三次産業の早すぎた 夢によってその巻を閉じる。 ここに残された品々の雑多な不統一さは、三軒茶屋というひとつの 追分に生きては埋もれ、またそこを通りすぎたであろう人々の生活 を物語るというよりは、むしろ王政復古、富国強兵、挙国一致へと 滔々とながれた時代背景に想いを致さざるを得ない。 ゆっくりと蛇行しながら世田谷を縦貫するこのひなびた厚木大山街道 が、にわかにあわただしさを増すのは、明治維新を前にしてからで ある。 当時湾岸の東海道に黒船の不安を感じた幕府は、より内陸 の交通網整備に着目し始めていた。 石橋楼にはその頃の人の動き を物語るかのように坂本竜馬の写真が残されている。 「菊は栄える葵は枯れる桑を摘む頃逢おうじゃないか・・・」 勘太郎 月夜唄の情景そのままに、信州伊那谷を後に有栖川宮東征軍に 従って江戸に入府した一人の若い山吹藩士は、御一新の後も故郷 に還る事はなかった。 松嶋織之助源俊章である。 飯田には信州山吹藩座光寺家の腰元 をしていた織之助の姉やすえが残り鈴木家に嫁した。 当時女手 ひとつで"石橋屋"(楼)を取りしきっていた大女将矢部ふじは松嶋 織之助に若林在の娘根岸セイをめあわせ新に飯田に因む山本姓 を起こして石橋屋を継がせた。 これに先立ち西南の役も終り明治政府の基盤もようやく定まろうと していた頃、明治帝は兎狩の行を駒沢五丁八反丸の地に進められ、 その往復の途次のお小休み所として石橋屋が用いられた史実がある。 当時の石橋屋には近在には無い回廊付きの上段の間があったため と伝えられている。 その折を偲ぶよすがとして今も菊の紋所付きの 挟箱が残されている。 帝が世田谷を新しく見られたことによってか、近隣諸国との緊張が 高まる中で、それまで府内にあった陸軍の各師団、聯隊は広い演習 地と幕営を求めて続々と世田谷に移りつつあった。 大山信仰の辻 は変化の時を迎えていた。 新当主山本織之助はこの趨勢に応じ石橋屋を總二階に建て直し、 料亭・旅館としての結構を整えるに致った。 屋号も高廈にふさわしく 楼名を用い、以後は"石橋楼"を名乗り、講の寄り合い、お日待ちの 集い、義太夫の席から選挙の立合演説会場にまでと、地域の生活 の中での文化的な公共性を深めていくのである。 やがて明治三十七、八年戦役を迎え、地方壮丁の徴募登録の場と して師団司令部の出張所となった石橋楼は軒頭に軍用旅舎の旗を 掲げる事となる。 その時の有様は写真に、そして残された宿帳には 当時の世相と人の動きをかいまみる事ができる。 玉電開通をみて明治四十年に描かれた石橋楼図は、大山道の道標 までをもかき込んだ精緻な表現によって、前述の写真と共に明治の 三軒茶屋をよく今日に伝えている。 明治も末のある一日、学習院長乃木希典は、玉川遠足の院生を率い、 三皇孫殿下に供奉して石橋楼の庭に駒をつないだ。 この折、将軍に 茶菓の接待をしたのが、後に石橋楼最後の女将となる山本カネ(当時 十一才)であった。 織之助は、世田谷弦巻在の宝樹山常在寺に、先代矢部氏の菩提と 共に松嶋諸氏の霊をも合祀して居る。 従って信州座光寺山吹藩の 出兵記録及長野県名の料理免許・武道皆伝書其他の遺品も石橋楼 に伝わった。 この中には彼の名入りの錦切れ付陣羽織も含まれる。 大正も半ばにして織之助は年頃の娘二人を残して没し、石橋楼は 再び女手による第二の女将時代に入る。 先代女将山本セイの長女 カネは折からの大正ロマンの息吹きの中で石橋楼を訪れる文人墨客、 地縁、血縁とは関わり無く、石川県小松市加賀佐野の旧い医家佐野 氏の出である警視庁警部補と結ばれる。 女婿山本遷である。 三軒茶屋の表通りも玉電の発達と共にひらけはじめ、大山道標の 上の不動尊像もこれ以後台座もろとも数次の移転を強いられる事に なっていくが、石橋楼には大正十一年の不動尊像奉移帳が残されて いる。 当時の地元有志の顔ぶれをその肉筆の上に知る事ができる。 既にこの頃には石橋楼も旅館部を廃業し、料理仕出し専業となって 居たもののその後の震災による被害と時代の流れには逆い難く、 旧屋は取壊し敷地を整理して同番地に新に"石橋屋商店"を新築 開店した。 楼名の消えたことが象徴するようにこれによって街道の 風物詩とされた茶屋の名残りは昭和モダニズムと完全に交替する 事になった。 入婿した山本遷は新感覚のもとに米国製レジスターを導入し、店頭 には当地初のネオンサインを取付け、輸入高級品を扱う玩具部と アールデコ調のインテリアを持つ純喫茶部の併営に夢を託した。 その他自動式電話器の取付や、NHKの電波受信申請等、電蓄や 冷蔵庫と共に当時の地域に先鞭をつける事が多かった。 今に残された昭和レトロの店内写真はインテリアとしても興味深い ものがある。 石橋楼は代々、なぜか写真とのつながりが深い。 龍馬写真にはじまりガラス種板や建築・人物から猫にいたるまで のスナップを各アルバムの中に残して居る。 それは織之助の父 松嶋沖右衛門が信州飯田市に於て明治初年にガラス種板を用い ての写真術ホトガラヒをこころみた事と関わりがあるかも知れない。 しかし、昭和は経済的には不況の中に幕を開けた。 昭和十年頃 更に起った道路改正により遂に移転を決意した石橋屋商店は、 玉川通りをはさんだ対面に再び新築開店し、面目も一新した完全 洋風のファサードに一部茶屋の面影を残したナマコ壁をデザインし、 "茶寮イシバシ"の店名で看板を掲げた。 茶寮イシバシはコック 2名、女店員 6名すべて制服着用の近代経営 で、1階は洋食喫茶、2階は洋食宴会場として地域コミュニティへの 奉仕を心がけた。 開店時のものと店内外の写真が残っている。 しかし、その最盛期は短く、間もなく配給統制による国策優先主義 の下で大戦の中に突入していくのである。 昭和20年4月、建物 強制疎開令によって石橋楼最後の店舗"茶寮イシバシ"は棟木に 綱をかけられて崩壊した。 築後わずかに10年であった。 三軒 茶屋最後の茶屋のおもかげは敗戦の瓦礫の中に消えたのである。 石橋楼最後の女将山本カネは戦後再び店の帳場に立つ道を選ぶ 事はなかった。 世田谷というひとつの鄙に生はうけても、街道の 表通りに正面から押し寄せる町場文化の中に成長した"粋"を心と する彼女の瞳の中にすでにかつての茶屋の姿は無かったのである。 カネはその晩年に明治期の石橋楼について非常に精密な、そして 興味深い図面を口述によって残した。 行く川のながれは絶えざるのたとえに似て、大山道は今も滔々と 流れつづけている。 今日の大山道は、高速の高架として天空を 走り、更には一直線に相模野をめざす新玉川線と化して地下を 流れつづけている。 そして流れに浮ぶうたかたのように、国道 246をめぐるなりわいはかつ消え、かくは結ばれて行くのである。 「農」という「面」の世田谷に「商」という「線」で入りこんできた江戸の やがては東京の都市文化の最初の伝達者としての役割、それが 三軒茶屋の石橋楼であったのかも知れないのである。 ( 1992 平成四年 旁線 - 遺物現存 ) |
| This photograph of
Sakamoto Ryoma was found in Ishibashiro. It is said that he used rare and expensive photographs in their days as his namecard. 石橋楼に伝わる坂本龍馬の写真。 当時は珍しく 高価だった写真を名刺がわりに使ったといわれる。 |
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| Yabe Fuji (right end), the first owner/ madame of Ishibashiya (Ishibashiro later) and her brothers 石橋屋(後に石橋楼)初代女将 矢部ふじ(右端)と兄弟 |
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| Yamamoto (Matsushima)
Orinosuke, Ishibashiro II was once samurai from Shinshu (Nagano), expert at kenjyutsu (Japanese sword fighting) and cooking 石橋楼二世山本(旧姓松嶋)織之助は元信州 伊那山吹藩士で剣術と料理が得意だった |
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| Yamamoto Kane, future the last owner/ madame of Ishibashiro (my grandmother) in her childhood, her father Yamamoto Orinosuke on ricksha in front of Ishibashiro and the big stone made Atsugi Oyama highway guidepost (approx. 1903 autumn) 玉電開通前の石橋楼にて 最後の女将となる 子供時代の山本カネ(祖母)と 人力車上の父 山本(松嶋)織之助 と 石造不動尊像厚木 大山街道道標 推定明治三十六年秋 |
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| Ishibashiro and Tamagawa Electric Railways left Soshu, Futako right Fuji, Setagaya, Noborito 屋根に鴟尾をのせた石橋楼と単線の玉川電気鉄道 左相州通、二子通 (現玉川通り) 右富士、世田谷道、登戸道 (現世田谷通り) |
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| painting of Ishibashiro 1907 in memory of opening of Tamagawa Electric Railways 玉電開通時 明治四十年の石橋楼絵図 |
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| Ishibashiro, full
two storey hotel restaurant with 1200 square meter fountain garden at the junction of three roads Sangenjyaya 三軒茶屋交叉点角の總二階造石橋楼 と三百六十坪の泉水庭園 |
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| Yamamoto Kane in Ishibashiro and Tamagawa Electric Railways background snap shot August 1919 taken by Sano Mio 石橋楼縁側で涼む山本カネと玉川電気鉄道(後方) 大正八年八月 佐野遷(みを)撮影 |
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| Sano Mio, future
Ishibashiro III was born in the family of successive doctors in Ishikawa prefecture, and he once worked for Osaka Electric Department and Tokyo Metropolitan Police Department. 後に石橋楼三世となる佐野遷は石川県の代々続く 医家に生まれ、大阪市電気局、警視庁に奉職した |
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| 21 year old bride Yamamoto Kane 1920 who became owner/madame of Ishibashiro two years ago 二年前に石橋楼を継ぎ女将となった 21歳の花嫁 山本カネ 大正九年 |
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| Yamamoto Kane (my grandmother) and Yamamoto (Sano) Mio (my grandfather), Ishibashiro III couple in the garden of Ishibashiro 石橋楼の庭で 三世当主夫妻の山本カネ(祖母) と山本(旧姓佐野)遷(祖父) |
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| Yamamoto Kane in Ishibashiro 石橋楼にて 山本カネ |
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| Yamamoto Kane, her
husband Yamamoto Mio and restaurant Ishibashiro 1921 山本カネ、山本遷と 一部増改築して 料理専業になった石橋楼 大正十年 |
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| in the garden of Ishibashiro from left to right Yamamoto Mio, Kane's little sister Fuji, Kane and their mother Sei 石橋楼の庭で 左から右へ 山本遷、カネ妹藤、カネ、カネ母セイ |
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| family treasures
displayed in Ishibashiro 石橋楼にて 家宝として伝来の拝領物などの品々 |
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| from left to right Yamamoto Kane, second daughter Michiyo, Mio, and Kane's mother Sei 1924 左から右へ 山本カネ、次女美智代、遷、カネ母セイ 大正十三年 |
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| madame Yamamoto Kane
(center) in her art deco cafe Ishibashiya where Takehisa Yumeji, famous poet/painter often called on 詩人で画家の竹久夢二もしばしば訪れた アールデコ調の石橋屋商店喫茶部で 女将山本カネ(中央) |
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| Yamamoto Mio (left) and the big silk made wall painting in cafe Ishibashiya 壁面に絹布山水画が飾られた 石橋屋商店喫茶部で 主人山本遷(左) |
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| their second daughter
Michiyo in high grade imported toyshop Ishibashiya 1925 高級輸入玩具も扱う石橋屋商店玩具部で 次女美智代 大正十四年 |
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| Yamamoto Takatoshi (my father) in his childhood in cafe Ishibashiya 石橋屋商店喫茶部で 子供時代の山本隆俊(父) |
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| Yamamoto Kane, Yamamoto
Mio and their eldest son Yamamoto Takatoshi (my father) in his childhood in front of newly opened cafe restaurant Ishibashi 1936 新築開店の茶寮イシバシ前で 山本カネ、 山本遷と子供時代の長男、山本隆俊(父) 昭和十一年 |
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| Madame Yamamoto Kane (left end) and the star actor in cafe restaurant Ishibashi 茶寮イシバシで 女将山本カネ(左端)と 東宝俳優大日方伝(中央) |
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| Yamamoto Kane, the
last madame of Ishibashiro was frank, smart and independent lady. Ishibashiro was the last and one of three chaya (hatago - traditional hotel restaurant) which became origin of the name of Sangenjyaya (three chaya), center of Setagaya, Edo (Tokyo). 石橋楼最後の女将、山本カネは気さくで粋で気風の 良い女性だった。 石橋楼は江戸の世田谷の要衝、 三軒茶屋の地名の由来となった三軒の茶屋(旅籠・ 料亭旅館)のうちの最後の一軒。 |
| old photographs/painting owner Yamamoto
Shunichi photo captions Yamamoto Shunichi 古写真、絵図所蔵、説明 山本俊一 |
| Yamamoto Kane the last madame of Ishibashiro, Sangenjyaya speaker Yamamoto Takatoshi 三軒茶屋石橋楼 山本カネ 1898(明治三十一)年生 1987(昭和六十二)年没 ( 山本隆俊 1927(昭和二)年三軒茶屋生まれ三軒茶屋在住 ) 私は石橋楼の四代目に当ります。 昭和二十年に最後の店が強制 疎開でとりこわされ、それを機に私の母の代で廃業してしまいました。 母は「これでよい」と言って全く未練はありませんでした。 - 幼年時代 - 私、隆俊の原初記憶は私の生れた三軒茶屋角の大山道標の位置 にあった、新築石橋屋商店のベランダから見た独逸のツェッペリン 伯号の銀色の機体でした。 それは葉巻のように光り乍ら北の空を 立川側から霞が浦の方へ反航する姿でした。 私の家は幕末から三代、養子取りを重ねた家で、若死にした長女、 次女についで私が生れた時、家中おどろいたと聞いています。 上の姉は生後間もなく死に、次の姉は小学校へ上る頃まで元気に 育ったのですが、世田谷で最初の自動車に依る事故で亡くなり ました。 その事故を起こした車は、さる方が駒沢のお住居から青山の連隊 に通われるロールスロイスで、殆んど音がしないのも事故の原因の 一つでした。 その頃は道幅もせまく信号もなく、又、人々は自動車 に対する感覚に乏しかったのでした。 父母は大変悲しんで菩提寺 の弦巻の常在寺にタイヤの形の墓碑を作り葬りました。 子どもの頃はただ一人の男の子として大切に育てられました。 自転車に乗っていても振り返ると誰かがついて来ているという不自由 な生活でした。 朝食はフレンチトースト。 一度残した食べものは 二度と作らないようにしていたらしく、私の食範囲は極めてせまかった ように思います。 小学校は駒澤昭和尋常小学校、今の中里小学校 で、その頃では珍しくプールのある学校でした。 雪の深い日、尋常小学校から家に帰ると「坊ちゃん、大変ですョ、 戦争です。」とねえやが告げました。 二・二六事件でした。 「茶寮 イシバシ」の建前に携わっていた仕事師の弟が機関銃隊に加わって 居ると判り大騒ぎになりました。 - 戦前の街 - 戦前の三軒茶屋は静かな所で、表通りはくぬぎや椎の並木道でした。 少し入った所には杉林や農園がありました。 店屋は今の玉川通り 一側だけでしたし、現在は賑やかな、栄通り商店街はしもた家の並ぶ 道でした。 玉電は明治四十年に開通しました。 ポールのついた車輌で乗降口 は車掌が一々鎖をかけたりはずしたりする形式でした。 終点につくと 運転手が窓から体をのりだして車輌の向きを変えていました。 もともと 玉川の砂利を運ぶために設かれた線で渋谷には砂利置場があり関東 大震災の復旧に役立ったそうです。 渋谷で、当時省線とよんでいた今のJRのガードの下を通り抜け、並木 橋に出て渋谷川沿いに天現寺まで行っていました。 私が中学へ通う 頃は渋谷が終点でした。 駅の前には広場があって、二幸、明治製菓 などの店がありました。 忠犬ハチ公が健在でチョコレートをやったの ですが食べませんでした。 老犬だったせいか不愛想で、頭を撫でたら ザラザラでした。 三軒茶屋の地名の由来と言われる茶屋は、角屋、田中屋、信楽などで 現在の玉川通りと世田谷通りの三ツ又の所にあったそうです。 茶屋 には旅館を兼ねたものもありました。 角屋は幕末になくなり、広く大き かったと言われる田中屋もいつしかなくなり、武家の血をひき、幕末に 二年しか経営しなかった信楽を保科家から買取ったのが曾祖母のふじ です。 堅実な経営をめざし、石橋を心として屋号を石橋屋にしました。 その後、石橋楼、石橋屋商店、茶寮イシバシと変りながら昭和二十年 まで続きましたが今は三軒ともありません。 世田谷通りは大山詣りのための大山街道で三軒茶屋はその要所と して栄えたのだと思います。 又、東海道の裏街道としてペリー来航 の折には調査をされた記録が残っています。 春日局が三軒茶屋と名づけたと言う説があります。 春日局は大山 阿夫利神社に深く帰依し、自身も又、代参人も度々大山に詣で、多く の寄進をしたようです。 大山にはそれ等に関する記録や碑が残って います。 この辺は三ツ又ですから昔から常に何軒かの茶屋があった はずで、あながち嘘とばかりは言えまいと思います。 − 三軒茶屋のマドンナ − 長野県飯田、山吹藩の人で、維新の頃中山道を経てこの地に至った 松嶋織之助は、女傑ふじに見込まれ、豪徳寺近くの根岸家の娘セイ と結婚し、相養子となって石橋屋を継ぎ飯田に多い山本姓を名のり ました。 明治三十一年、建替をして總二階の高層となったのに因み、石橋楼 と改称しました。 私の祖父織之助は「やわらか頭の人」と言われ 剣術と料理が得意でした。 母カネは織之助セイの娘として明治末 ここで生れました。 駒沢村女学校を卒業して家業につき、三軒茶屋 のマドンナとよばれ、石橋楼の看板娘でした。 母カネには一つ違いの妹「藤」が居り小石川の豪商に嫁ぎましたが お産の肥立ちが悪くすぐに亡くなって居ります。 日清日露の戦争があり、この世田谷村には次々に兵隊屋敷ができ ました。 石橋楼も軍の御用を多くつとめるようになります。 母はよく 乃木大将にお茶をさし上げた話をしていました。 三軒茶屋のマドンナの話が読売新聞に載り、画家、文士、野球の 監督、ゴルフコーチなど様々な客で店が賑わいました。 その中から警視庁の警部補がお婿さんにおさまりました。 私の父「遷」 (みを)です。 父は石川県小松の医家の出身で佐野と言いました。 とてもモダンな人でした。 店を閉じてからは大蔵省・関東財務局に 勤め、後に世田谷信用金庫に在職し昭和五十六年九十五歳で亡く なりました。 - 石橋楼由縁の品 - こどもの頃の日常会話の中に紀州様、黒田侯、乃木大将、お玉ケ池 道場などの言葉をよく耳にしましたので、明治はさして遠い昔ではない ように感じて育ちました。 祖父の残した古いつづらの中に、十六の菊の紋章のついた道中用の 挟み匣、山吹藩士であった頃の陣羽織などと共に古い一枚の写真が 入っていました。 明治十四年二月、駒沢原野に明治天皇が兎狩りに来られた折、石橋 屋で馬車を降りられ、ぬかるみの多い駒沢原野までの道は騎馬で行 かれたとのこと、そのような時の拝領品が十六の菊の紋章入りの 挟み匣です。 駒沢原野は後の駒沢練兵場。 今の駒沢公園はその一部です。 一面の砂原とボサと呼ばれる茂みが下馬・三宿・池尻・大橋近くまで 拡がり、所々に塹壕が作られていました。 下馬寄りにはどこにも つながっていない線路とプラットホームがあり、軍馬を積込むための デリック(起重機)と貨車が訓練用に設けられていました。 一枚の古い写真、私は子どもの頃それを見て強い印象を受けたのを 覚えています。 しかし何故かその写真について両親にあからさまに 聞くことにためらいを感じたものでした。 ある時、それと同じ写真が朝日新聞に載りました。 福井藩の流れを 汲む調布在住の方が持っておられた由、写真の主は坂本竜馬でした。 その写真のことで後日迎えた東京工芸大学の角田教授と新聞記者 の話で同じ写真が数葉存在することが、ほぼ解明しました。 当時、採光のための孔が四乃至八ある写真機があり、一回の撮影で 孔の数の写真が撮れ、それを切離して今の焼増と同様に複数の画像 が手に入る仕組になっていたそうです。 現存するその写真機は「石黒 敬七記念館」で見ることができます。 坂本竜馬はそれを名刺のように 使っていたらしく、大山街道を経て江戸に入る時石橋屋に泊って女将 のふじに手渡したのだろうと考えられます。 - 祖母セイのこと - 店の忙しかった母に代って私を育ててくれたのは主に祖母セイです。 幼少期は二階で暮していました。 玩具部と喫茶部の二店舗に忙しい 父母は下にかかり切りで、時折上って来る母が身繕いする際に空に 舞う佳い香りを覚えています。 母はいつもホワイトローズを使って いました。 昭和十一年までは世田谷村は府中の管領でした。 この辺より現在 の大蔵・喜多見・狛江はもっと静かな寂しい所であったようで祖母の 戯れ歌に「大蔵まっくら 来た道(喜多見) 忘れて もう来まい(狛江)」 と言うのがあります。 そういう三軒茶屋も私が子どもの頃は、早朝、 青山辺りへ野菜を届け、下肥を貰って帰る馬車・牛車の音で目を さますのが日常でした。 祖母セイは八甲田山事件のニュースを聞き及んでいたふしがあります。 多分それは報道管制の中でも聯隊の多かった当地に洩れ伝わったの ではないかと思います。 「夜になると亡霊(オバケ)の軍隊がザック ザックと原隊の門へ帰ってくる音がするんだって。 そこで門の所で 聯隊長がサーベルを抜いて、廻れ右、前へ進め、と号令をかけると だんだん遠くなって行くんだとよ。」 後日、新田次郎氏の著作の中に 現地聞取りの話として符合するものがあるのを知ったのは近年に なってからです。 - 茶寮イシバシ - 石橋楼は大正十四年に建て替えをして、玩具部と喫茶部のある石橋屋 商店になったのですが、昭和十年に区画整理のため店を移転せざるを 得なくなり、翌十一年に茶寮イシバシが新規開店しました。 新築中の店の開店を待つ一年ほどの間、母は住居として居た現在地 でしもたや暮らしをし、その安らぎの故か十一歳年下の妹をみごもり ました。 芳枝です。 最後の店茶寮イシバシは、父と母のはじめた宴会場のある喫茶、洋食 の店です。 一階はコーヒー・紅茶・カレーライス・とんかつ・アイスクリ ームなどを椅子席で出し、二階は座敷で洋食をフルコースで出して いました。 建物の設計、包装紙やマッチ箱、室内装飾、ウエイトレスのユニフォ ームに至るまで、モダン好みの父が自らデザインしました。 トイレや 厨房にアメリカ製の自動ドアをつけ、ユリの花模様のステンドグラス・ シャンデリヤ・ヴィーナスの胸像も飾ってありました。 床は艶消しの 白黒のタイルで市松模様、壁は漆喰で六十席ほどの店でした。 世田谷ではじめてのレジスターがあり、ここでも母は看板マダム でした。 当時は神田辺に「桂庵」とよぶ職業紹介所があり、従業員の多くは そこから雇い入れました。 その他に自転車で使い走りをする小僧、 自宅での雑用をするねえやがいました。 - 戦争 - 戦争が烈しくなり、度々空襲があるようになって、祖母、母、妹は父の 故郷石川県小松へ疎開しましたが、ここは特攻隊の基地になり危険だ ということで佐野氏発祥の地、佐野庄へ再疎開しました。 終戦を目前に控えて私は上越線の汽車で単身小松を訪れました。 東京へもどる汽車の窓からホームの母に手渡した包みをすぐに彼女は さとったようでした。 中には私の髪が入れてあったのです。 終生、芯 の強い人であった母と最も通じあえたひと時であったかも知れません。 当時、大学の予科生で理科に在籍し勤労動員で工場通いをしていま したが、理科の徴兵猶予は最早危うく、又毎夜の空襲に何時命を失うか わからぬ頃でした。 祖母セイは終戦後すぐ彼の地で亡くなりました。 五月二十五日、夜の空襲で三軒茶屋一帯が火災になった時、私は父 と住居の屋根に上ってバケツで家に水をかけていました。 火勢が盛ん になり熱くてかなわず、その内に火のついた板や柱が飛んで来るように なりました。 最早これまでと下りて逃げようとした時、急に風が止んで 火勢が衰え夜が明けはじめました。 住居は焼け残りました。 父母の思いをかけた表通りの店、茶寮イシバシ はこの火災に先立って建物強制疎開令によって築後僅か十年ですべて 取りこわされていました。 このため三軒茶屋一丁目側は救われたの かもしれません。 - 戦後 - 戦後の復興期、三軒茶屋にもバラックを建て、商いをはじめる人が 増えてきました。 母は粋を心とする一つの見識からその形の商売を することができませんでした。 終戦の直前、思いをかけた店を失い、 二代目だった母を疎開先で失って女将稼業の重しがとれた母は再び 店の帳場に立つ道を選びませんでした。 母は晩年、世田谷区の文化財担当の課へ単身抗議に訪れたことが あります。 石橋楼があたかも遊郭であったように表現したものがあった からです。 恐らく、茶屋・料亭・待合・遊郭などの区別もさだかでない者 の調べからの誤認と思われますが母は許せなかったのです。 後日、区の担当者は母が訪れた時の様子を次のように語っています。 「夏の真盛り、麻のパラソルに白地の着物で来られましてね。 私の 感動したのはお話の正論はもとより、その語り口でした。 これは今 まで会ってきた人と違う。 世田谷のものではない。 それこそは生き ている江戸だ」と。 母は又、明治期の石橋楼について大変精密な、興味深い図面を口述 によって残しています。 父が役人になったこともあって主婦業に専念し 昭和六十二年、八十八歳で亡くなるまでが母の最も平穏な時代で あったと思いますが亡くなるまで石橋楼の象徴であったとも思います。 - 新しい世田谷へ - 生れながらに女主人の場所にいた母は、当時の軍国化の波の中で、 しかも世田谷という風土の農村的な意識の人々の中で、目立つ所に 体を張っていたのです。 その上三代にわたって男主人のいない店の 女将ですから一般の女性とは一味違う人生を歩みました。 保守的な地域に、新しい文化は簡単には受け入れられず、まぶしい目 で見られながらの対立が多々あったと想像されます。 そのようなこと を経て、今の閑静で知的な住宅地としての世田谷へ移行していった ものと思います。 ( 2002年7月 山本隆俊談 ) 世田谷女性史勉強会 「世田谷の女性たちは語る」 聞き書き集(一) |
| − 調査番号 1 − 名称 石橋屋(元志からき) 改築後 石橋楼 (山本織之助、妻セイ) 所在 旧 武蔵国荏原郡上馬引沢村第百六拾壱番 現 東京都世田谷区三軒茶屋2−13 協和銀行最寄ノ角地 (大山道碑) 時期 明治二年 − 大正十年 (明治三十一年總二階に改築) 内容 旅館・料理・会席 (大正十年旅館部廃業) 特色 大型化。 従来の茶家(旗亭)様式から總二階化し楼と稱した。 因みに本楼は三軒茶屋最後の茶家であり、その営業は最も 長期間にわたるものとなった。 世田谷区立郷土資料館に 復元展示あり。 構成 亭主・山本織之助、女将・山本セイ、長女・カネ、次女・藤、 帳場(1)、板場(2)、洗場(2)、雑用(1)、女中(4) 建物 前期 − 木造瓦葺平家造、奥座敷に本陣風上段の間を設備、 宅地壱反壱畝廿五歩、家屋約百坪、泉水庭園、石橋ニ架。 中期 − 木造銅版葺總二階造、回廊付、上段の間ヌレ縁の 松板六枚は明治聖上の記念として改築後の奥の間に使用。 泉水庭園約三百六十坪に亭と離れ座敷予定の一棟(物置と して使用) 事跡 尚その他来遊の伝承として紀州公、黒田候、徳川公、乃木将軍、 松林桂月等がある。 事物としては明治天皇拝領の菊紋入り 挟箱、紀州公使用金縫取絹糸かい巻、坂本龍馬公写真がある。 この他明治四十年玉電開通時の石橋楼絵図は、玉電に勤務と 伝えられる霜鳥氏の精緻な筆による彩色画で、大山道標の位置、 又石橋楼が玉電に信号所を提供していた様子まで明らかである。 他には織之助遺品として高島秋帆軸、東征官軍陣羽織、錦布、 鎖帷子、鎌槍、刀剣等。 雑記としては大正九年八月二日東京夕刊新報紙が丁度年頃に 成長した石橋楼の姉妹について匿名を用いて写真週刊誌的ゴシ ップを掲載したものが残されている。 営業 冒頭に記した如く、三軒茶屋石橋楼は交通の要衝を占める旗亭 である。 この語も又死語に瀕して居るが、近年、映画的表現に 毒されて楼名を用いることが即、妓楼であるが如くに誤認、誤伝 される風潮がある。 楼とは大厦の事で、建築図面に明らかで あるが当楼は開放的設計であり、殊に二階は戸、障子すべてを 取り払えば吹抜の大広間となり、婚礼、お日待ち(講)、義太夫、 浪曲、寄合いの席ともなって、地域における劇場、ホールに近い 文化的役割も果していた。 石橋楼は家族的経営を旨として玉川鮎等の割烹による旅舎サー ビスを専業とした。 この経営理念は後年までうけ継がれ、決して 時流による利益と引替えにされることはなかった。 堅実な経営 方針による評価は前項の事跡により明らかである。 一方、周辺の聯隊への入除隊者の宿泊が多くなってきた事も残さ れている宿帳から知る事ができる。 やがて陸軍は大陸への出兵 を控えて石橋楼を接収し、軍用旅舎の山形マーク旗を正面に出さ しめ師団司令部としての用を命じた。 残されたその写真は三軒 茶屋交差点の最も古い一枚である。 当主織之助は大正七年に没し、大正十年五月廿八日、その宿帳 は長女山本カネの筆をもってその頁を閉じている。 最後の宿泊客 は廿九日午后六時に石橋楼を後にした群馬県吾妻郡霞か原町 八百四十五番地(農)藤原傳一郎(五十年)とあり、行先地は 野砲兵十三聯隊と記されている。 附記 山本織之助は信州の出である。 石橋屋に入婿前は松嶋姓であり 信州山吹藩座光寺家に仕えた。 維新に際しては藩主に従い中仙 道御先鋒總督府の一手として江戸入府、後和田倉門の警衛に当 った。 山吹藩史、及その出兵記録、侍時代の名で長野県で取得 した料理営業免許鑑札第二百拾二号が残されている。 織之助が 石橋屋に入夫したロマンスは定かではない。 尚山本カネ口述として、神田のおばさんとして知られる女性をお玉 が池千葉道場辺に訪ねたという伝承がある。 − 調査番号 2 − 名称 石橋楼 (後期) (山本カネ、夫遷石川県小松市佐野氏より入夫) 所在 旧 東京府下荏原郡駒澤村上馬引沢百六拾壱番地 現 東京都世田谷区三軒茶屋2−13 協和銀行最寄ノ角地 (大山道碑) 時期 大正十年 − 大正十四年 (一部増改築、玉電工事に伴い解体) 内容 うなぎ、会席 (営業形態を変更) 特色 専門化。 亭主の死去及客層の変化により旅館部を廃し、過渡的 に専門料理店としての営業にうつる。 尚従来の建物に一部増改 築を行い洋館、内玄関等を設けた。 構成 亭主・山本遷、女将・山本カネ、長女・睦代、母・セイ、 板場(1)、洗場(2)、女中(3)、子守(1) 建物 木造銅板一部瓦葺二階建(百坪) 事跡 大山道標は一時玉電工事等で道路南側に移されていたが、大正 十一年再び石橋楼敷地内にもどった。 資料として同年付不動尊 像奉移帳並びに不動尊縁日寄附金芳名帳が残されている。 写真は三軒茶屋角での祭礼みこし振り、西山(西太子堂)風景、 玉川屋形船等があり、震災前後の家族写真は主に三軒茶屋小林 写真館で撮られ始めている。 又、この時代には出入り職人に名 入染抜きの法被を配るしきたりでそのスナップも残されている。 尚祭りバンテンの染抜きは茶家である。 営業 この時期、石橋楼は旅館を閉じ経営者を失った後の女世帯であり、 業態の変化はそのための単純化とも言え、長女カネの結婚により 新しい石橋屋商店の時代に入っていった。 − 調査番号 3 − 名称 石橋屋商店喫茶部、玩具部 (山本遷、妻カネ) 所在 旧 東京市世田谷區三軒茶屋町百六拾壱番地 現 東京都世田谷区三軒茶屋2−13 協和銀行最寄ノ角地 (大山道碑) 時期 大正十四年 − 昭和十年 (新築開店、道路改正に伴い移転) 内容 純喫茶、洋食、高級玩具 特色 様式化。 新経営感覚の三世によりマルチ店舗を新築、外装には 地域で初の立体ネオンサインを取付け、インテリアはアールデコ風 に統一、完全に和食を離れた。 玩具部には高級品、輸入品も 取そろえた。 構成 マスター・山本遷、マダム・山本カネ、次女・美智代、長男・隆俊、 母・セイ、男子カウンター(1)、男子店員(1)、女子店員(4)、 女中(1)、子守(1) 建物 木造亜鉛引一部瓦葺変形二階建(約70坪)、庭園更地化。 この期に玉川通り側に二階建貸店舗三棟を造り東京貯蓄銀行の 為に用地を空けた。 店舗の一つに池田洋服店があった。 尚更地は登戸街道を店舗正面とした石橋屋と銀行通用口からの 玉川通りへの通り抜けの用に供され、井戸はそのまま残された。 事跡 石橋屋の移転までは同地内に明治天皇聖蹟碑(木柱)が存した。 昭和に入り砧にP.C.L.撮影所ができ、俳優、監督等の往来も 増し、鈴木傳明、衣笠貞次郎、竹久夢二氏等を迎えたと謂う。 写真には荏原病院を背景とした駒澤町会役員整列の記念写真等 がある。 営業 新経営者は石橋屋の設計にあたり自ら図面をおこし、紙をカットして 立体模型を作った。 二階建てのそのミニチュアにはエレベーター がとり入れられて居り、二分割された店舗はマルチ経営を考えて 開放的な構造で結ばれていた。 名稱は丸の中に石の商標を用いる石橋屋商店となり、包装紙から マッチ、メニューもインテリアも経営者自らがデザインした。 又、 店頭会計の明朗化のためこの地域で最も初期に米国製のレジ スターを導入した。 玩具部、喫茶部と稱した二店舗の双方に積極的にショウウインドウ、 ガラスケースが採り入れられ、殊に喫茶部の西側壁面は入口から 奥までの絹布山水図で飾られて居た。 ファニチュアは良質の籐、 木材のマホガニー仕上で統一され、随所に大きな鏡が用いられた。 重厚なサービスカウンターの後には豪華なワイン棚を配し、カウンタ ー内には冷蔵設備と大型ボンベ持込によるソーダサイフォンが二基 セットされて居た。 コーヒー、紅茶は二台の大型パーコレーターに よって毎朝セットされ、カウンターボーイはコックをひねる丈で即時 カップを満たすことができた。 大正ロマンから昭和モダニズムへかけて客層は学生、軍人、文人、 明大野球部(天智監督)、映画人等が増えた。 従業員は地元では なく神田の桂庵(私営職安)から採るようになった。 − 調査番号 4 − 名称 茶寮イシバシ (山本遷、妻カネ) 所在 旧 東京市世田谷區三軒茶屋町五拾壱番地 現 東京都世田谷区三軒茶屋1−37 西沢ビル地内 時期 昭和十一年 − 昭和二十年 (新築開店、強制疎開により取こわし廃業) 内容 喫茶、洋食、会席 特色 近代化。 道路改正により移転した石橋屋商店は初めて故地を はなれ、玉川通り南側にベランダ、植込付の白亜のレストランを 新築。 店名にも新風をとり入れ、従業員に制服を支給、二階を 宴会場とした。 構成 マスター・山本遷、マダム・山本カネ、長男・隆俊、三女・芳枝、 母・セイ、コック(2)、レジ(1)、ウエイトレス(4)、女中(1) 建物 敷地五十三坪、建坪三十二坪外二階二十三坪。 木造瓦葺 總二階一部ベランダ前庭付、店舗部分及キッチン外装は洋風。 石橋楼の印象は角部分の大名格子とナマコ壁にデザイン化して 残され、一部防火建築。 店舗部分は總飾りタイル貼りとし、しっくい天井、ステンドグラスと フランス窓を表側に採用した。 全体的に光學的デザインを重視し、 出入口は五ヶ所(店舗正面、裏、調理場、内玄関、台所)、トイレット は三ヶ所(一階客用、二階客用、内用)あり、レストラン、宴会場、 キッチン、住居、使用人室を画然と区分した。 従来の店に比べ格式、建材共に吟味された恒久的施設としての 意図がこめられていた。 事跡 この時期は戦争の序章であり、客層も學生、文人から軍人、団体、 産業人型に変りつつあった。 中で若き日の大林清氏(作家)等は かわらぬ顧客のひとりであった。 営業 軍需景気に支えられた宴会の増加も特色で、二階和室は殆ど連日 予約された。 この間に二・二六事件がおこり、本建物の工事に携 わった一員も機関銃中隊の一員として出動し、かつ周辺に事件関係 者も数多く居住し、軍事色は一層重苦しいものを加えつつあった。 このような中で大場信続氏の仲介で石橋屋から日本橋高島屋に 対して明治天皇由縁の品が貸出されている。 昭和十五年十一月、 明治神宮御鎮座二十年祭奉祝明治天皇御聖蹟展覧会がそれで ありこの間の出版物も現存する。 宴会と本格的洋食の提供をめざしてキッチンには石炭を燃料とする 大型オーブンが設置され、アイスクリームの大型製造機も装備されて 毎朝自家製品が作られた。 カウンター装備は前の店より一層大型 化、近代化された。 しかし戦局の推移により次第に業界は活性を失い、経営者の三軒 茶屋副町会長担当を機として休業に入り、店舗は町会事務所に 転用された。 男子従業員は應召、女子従業員は徴用され、遂に 昭和二十年三月の大空襲を期にして建物強制疎開に應じ、幕末 開化期よりの八十年に及ぶ歴史を閉じた。 同年九月、明治の石橋楼女将山本セイは娘婿の郷里石川県の 山中疎開先で三軒茶屋を夢見つつその生を終えた。 山本遷、 山本カネ夫妻はその経営の辛苦と名跡の重圧から自動的に 開放され、再びその業にもどる事はなかった。 ( 1989年2月 山本隆俊 調査報告 ) |
| 山本隆俊 三軒茶屋石橋楼四世 映像作家 ATC(Art Theater Club)山本事務所代表 世田谷区文化財保護指導員 世田谷を記録する会参与 三軒茶屋を記録する会主宰 三軒茶屋郷学処同志 玉電旧型車両を保存する会代表 東京龍馬会会員 山本隆俊 受賞作品 1982 第五回東京ビデオフェスティバルビデオ大賞 「わかれ」 1982 第十回日本映像フェスティバル銅賞 「一粒の麦」 1983 全日本ビデオコンテスト優秀賞谷川俊太郎選 「かもめ」 1983 第三回音と映像の300秒ビデオコンテスト特別賞 「クロスオーバー」 1983 第六回東京ビデオフェスティバルビデオケーション賞 「マイウェイ」 1983 北陸ビデオコンテスト特別賞 「ビデオファンファーレ」 1984 第七回東京ビデオフェスティバルビデオケーション賞 「Tokyo drums」 1985 第八回東京ビデオフェスティバルビデオケーション賞 「新風土記絵詞 - 郷土詩 - 」 1988 おもしろビデオフェスティバル爆笑ドッキリ部門大賞 「花の都のマン中で」 1989 全日本ビデオコンテスト佳作 「写真」 |
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